織田信長の桶狭間の戦いの後

織田信長は桶狭間の戦いで今川義元を討ち取ることに成功したものの新しく領地を手に入れたわけではない。
今回桶狭間の戦いで今川義元が討ち取られたことで今川家は桶狭間の戦い後勢力が衰えることになった。

さらに今川義元と従属関係にあった松平元康(後の徳川家康)は今川家から離反し、当時桶狭間の戦いでは敵同士であった織田信長と同盟を組むことになる。

この織田信長と徳川家康の同盟を
『清洲同盟』と呼ぶ。
織田信長は徳川家康との同盟で東側の安全を手に入れ、一方徳川家康も今川家討伐に集中できる同盟となった。

織田信長は桶狭間の戦いで領地が拡がったわけではないが徳川家康との同盟と家臣の評価の恩恵を十分に受け、現在の岐阜県、後の岐阜城となる美濃攻略へと手を進めることになる。

この時、織田信長は26歳でここから天下統一の快進撃が始まる。

 

織田信長の奇襲は仮説(かせつ)??桶狭間の戦いの真実とは!?

桶狭間の戦いでの有力説は織田信長の奇襲が成功し、今川義元が討ち死にした。という説が一般的ですが他にも色々な桶狭間の戦いでの説が存在します。
歴史沿革.comでは真実に一番近いであろう有力説をまとめ掲載致しておりますが、今回の桶狭間の戦いを調査している最中にもたくさんの説が浮かび上がってきておりますので2つほどご紹介します。

・今川義元は最初から戦う気がなかった
この説は今川義元に戦意がなくただ織田信長の領地である尾張を通過しようとしたときにいきなり織田信長に襲われたという仮説。
今川義元は3万以上の兵を引き連れて上洛中であり、一方の織田信長は約3千から5千程度の兵しか持たないことから何もしてこないだろうと思い、そのまま通過しようとしていたということです。
しかし、この説はあまりに無用心であり今川義元は桶狭間の戦い前にいくつも戦をしたことがある武将なのでこれはあまり真実性を含みません。さらに徳川家の文献を調べていた最中に「桶狭間の戦い時に砦を落とした」との記載も発見されていることから、まったく織田家と戦う気がなかったとは考えられないことから仮説であると判断されたものになります。

・桶狭間の戦いは奇襲戦ではなかった。
桶狭間の戦いは奇襲ではなく正面衝突の普通の戦であったという説。この説では織田信長が桶狭間山で陣を組み今川義元を討ち取ったと記されている物でありますが、これもまた真実性に欠ける仮説であることが間違いないでしょう。
この桶狭間の戦いでは戦力2000~5000の織田家VS今川家2万~5万の戦力差はほぼ間違いないと多数の文献から示されております。
この戦力差の前に織田信長自身が正面で戦うと判断するとは考えにくく、また桶狭間の戦いの前にいくつも今川義元に砦を落とされていることからこの説も仮説と判断されています。
織田信長の桶狭間の戦い後 ポイントまとめ

桶狭間の戦いの後家臣の評価を取り戻した。
織田信長は徳川家康と「清洲同盟」を結んだ
織田信長は今川義元を討ち取ったが領地を手に入れたわけではない。

 

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