織田信長 桶狭間の戦い 概要

 

1560年6月織田信長の領地である尾張に今川義元が侵入した。今川義元は上洛を目指し京に入るためである。

当時今川家は現在の東海地方にあたる三河3国を所有しており天下に近い大名の一人で「海道一の弓取り」と称されていた。

一方織田信長は尾張の小大名で幼きころから大うつけなどと家老から悪い印象を受けていた。

桶狭間合戦の参考文献を色々と調べてみたが、当時織田家は2500~5000程度の兵力しか所有しておらず、一方の今川義元は2万5000~5万ぐらいの兵力で上洛を目指していたとされている。

桶狭間の戦い時に織田軍と今川軍の兵力差は約5倍以上である説がほぼ有力とされている戦いである。

しかしこれに動じず織田信長は奇襲作戦を画策し今川義元がいる本隊に少数ながら奇襲攻撃を実行する。この奇襲作戦を画策した時織田家の家臣からは篭城した方が良いという声が多く出ていたがこれを無視して奇襲を実行することにした。

桶狭間での奇襲前織田信長は熱田神宮に参拝後出陣するのだが、家臣の間では「もう織田家は終わりだ」と囁かれていた。

織田信長が奇襲作戦に出る前にちょうど大雨が降り、これを「天運」と織田信長自らは称した。この大雨の音と視界の悪さから今川義元は織田信長本隊が近づいてることに対応が遅れ、他の部隊が奇襲に気づいた時にはすでに今川義元は討ち取られていたとされている。

今川義元は2万5000~5万の兵力を有していたにも関わらず、わずか数千たらずの織田信長の小部隊に討ち取られてしまったのである。

この戦国時代最大の大波乱は桶狭間の戦い後、各国の大名に情報が届き尾張に織田信長有りと認識されるようになった織田信長の出世第一回目の戦でもある。

桶狭間の戦い時、織田信長は出陣前に詩を舞い勝利を祈願していたと言われている。

その時の舞が幸若舞「敦盛」である。

【思へばこの世は常の住み家にあらず。草葉に置く白露、水に宿る月よりなほあやし。

きんこくに花を詠じ、栄花は先つて無常の風に誘はるる。 南楼の月を弄ぶ輩も月に先つて有為の雲にかくれり。

人間五十年、下天のうちを比ぶれば夢幻の如くなり。一度生を享け、滅せぬもののあるべきか。】

織田信長は家臣の悪評をこの桶狭間の戦いで取り払い、その後の躍進の第一歩を踏み出したのである。

織田信長の桶狭間の戦い 概要まとめ

icon-check01-red桶狭間の戦いは1560年6月12日(永禄3年)の出来事である。
icon-check01-red桶狭間の戦いは奇襲戦の手本である。
icon-check01-red桶狭間の戦いは【織田家2500~5000】VS【今川家2万5000~5万】の戦とされている。
icon-check01-red織田信長は家臣の評価を桶狭間の戦いで取り返した。

 

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