織田信長の稲葉山城の戦いと一夜城

織田信長は桶狭間の戦い後、以前は同盟関係にあった美濃の斎藤攻めに繰り出すことになる。

織田信長は桶狭間の戦い後に松平元康(徳川家康)と同盟を組んだことで
後方の憂いは断たれた。

今川義元を桶狭間の戦いで討つ前までは今川家の勢力が強かった。
また徳川家康も今川家の配下にあり織田信長は稲葉山城攻略に力を注ぐことができなかった。
しかし、桶狭間の戦いで今川義元を討ち取り今川家は勢力を失い、松平元康(徳川家康)が今川家から離反することで
織田信長は稲葉山城攻略に集中することになる。

 

 

以前から織田信長は濃姫(帰蝶)と婚姻関係にあったことから
美濃当主斎藤道三と同盟関係にあったが、斎藤道三が斎藤義龍に戦で討たれたことで道三と織田信長の同盟は途切れ、斎藤家と険悪になっていた。
桶狭間の戦いで家臣の心を得た織田信長は稲葉山城攻略に乗り出すことを決意した。
美濃の主城である
稲葉山城(現在の岐阜城)は山にあることから高台であり、織田軍が攻めてくる時の軍勢が斎藤側に筒抜けになることから織田信長は美濃攻略に足踏みする展開になっていた。
史実とはいえ織田信長は桶狭間の戦い前から同盟相手である斎藤道三が戦で討ち取られてから美濃を手中に収めることを目論んでいたみたいだか今川義元の圧力にも挟まれながら約8年もの歳月を費やしていた。

 

 

織田信長 稲葉山城の戦い前 まとめ

icon-check01-red織田信長は美濃攻略に約8年間の歳月を費やした
icon-check01-red織田信長と同盟関係にあった斎藤道三が戦死したことで斎藤家と険悪になった。
icon-check01-red織田信長は以前から稲葉山城を狙っていた。

 

 

墨俣一夜城は真実ではなく創作である可能性も

稲葉山城の戦いで有名な豊臣秀吉の出世のきっかけともなる一夜城。この一夜城は伝説であり、実際には斎藤側から城を奪い改修しただけであるという説もある。

豊臣秀吉(木下藤吉郎)この一夜城(墨俣城)築城前にあらかじめ材料となる木材などを切っておき、その木材などで舟を作り、川を下り到着した瞬間から築城を始めれるように準備していたと言われている。

しかし否定説もあり、柴田勝家や佐久間信盛らが築城に失敗したあとに織田信長の命令で豊臣秀吉が後を引き継いだ。
関連の文献「前野家文書」や「太閤様軍記」一夜城を築城した記録は残されておらず、江戸時代の中期に作られた創作(作り話)だと見られている論説も多数存在する。

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