織田信長の金ヶ崎の戦い後

織田信長は金ヶ崎で劣勢に立たされると即座に撤退を決定し、わずか数十名で上洛した京に生還することに成功した。
命の危険に晒される場面も撤退中に見受けられていると言われている。 しかし、その2ヵ月後には軍勢を立て直し姉川の戦いへと駒を進めていることからも臆していないことが見受けられる。 このように次の姉川の戦をする前と金ヶ崎敗戦後の間に何が織田信長の身に起こっていたのか色々と調べてみた結果、かなり危険な体験や策略にもあわされていたことがわかりました。 一体織田信長の身に何が起きていたのかを詳しく掲載したいと思います。

金ヶ崎撤退後数十名で京に帰還することに成功した織田信長。今回の戦の後でも本人の中には先が思い描かれていたことが透けてみえるようである。

しかし、織田信長も今回の撤退戦時には命の危険に晒されることがありました。京に帰還する最中織田信長は六角家の狙撃主に狙撃されるということが発生した。京には当時織田家に賛同しない残党もかなり残っていたと推測されており、この時数十名で動いていた織田信長の身に直接危険が及ぶこともあったのだろう。

事実織田信長は金ヶ崎戦の後、京に撤退しその後本城である岐阜城に京から移動したことが明らかになっている。

この時数十名でしか行動していないのであれば本隊が京に到着してから岐阜に帰還することもできたのだが、すぐに岐阜城に帰っていることから京の町自体が全て織田信長の配下に属していたわけではないと予測されている。また、当時の京では室町幕府将軍の足利義昭が今回の浅井家裏切りの主導者であったのではないかとの推測もされていることから京の町には織田信長の敵が多かったと見受けれらている。

いくつかの文献でも織田信長が狙撃された場所は京についてからと記されている物もある。

その他の文献では京から岐阜に移動する時に織田信長が狙撃されたのではないかと言われている。

 

織田信長はなぜ浅井長政に離反されたのか?

織田信長は同盟相手でもある浅井長政になぜ金ヶ崎の戦いの途中で裏切られることになったのでしょうか?この背後には

室町幕府将軍足利義昭の圧力があったのではないかと言われています。足利義昭は後に織田信長包囲網を築いており、織田信長が戦で忙しい最中にも策略を各国に繰り広げていたのではないかと予測されています。元々足利義昭の上洛要請を大儀名文に上洛した織田信長でしたが、上洛に成功した後は足利義昭と織田信長はお互いに利用しあうという関係を続けいていたと記されています。

そういった中、足利義昭が織田信長に室町幕府副将軍に任命したのですが織田信長はこれを黙殺し、就任せずに金ヶ崎の戦いに出陣したと記録されています。このように足利義昭には織田信長包囲網を作り上げる十分な動機を持つ原因も織田信長自身が与えていたということにもなるでしょう。

足利義昭はこの時に織田信長が京を中心にして力を持つことを恐れていたのです。

織田信長と金ヶ崎の戦い まとめ

icon-check01-red織田信長は浅井長政の裏切りを受け、撤退するしかなくなった。
icon-check01-red金ヶ崎戦い時、織田信長はわずか2日で京まで撤退した。
icon-check01-red金ヶ崎戦後に織田信長は木下秀吉(豊臣秀吉)を一番評価し、金数十枚を与えた。
icon-check01-red徳川家康は織田信長が撤退したことを後から知った

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